浅丘ルリ子と石坂浩二の離婚理由は?小林旭との関係や子供は?

浅丘ルリ子と石坂浩二の離婚理由は?小林旭との関係や子供は? 女優

日本映画全盛期の日活アクション映画で多くのヒロインを演じ、映画「男はつらいよ」では4度のマドンナ役を演じた浅丘ルリ子さん。
還暦で石坂浩二さんと離婚しましたが、離婚の理由は?
小林旭さんとの関係や子供は?
この記事では浅丘ルリ子さんの結婚や子供、石坂浩二さんとの離婚の理由などについてリサーチしています。

浅丘ルリ子と石坂浩二の馴れ初め

浅丘ルリ子さんと石坂浩二さんの馴れ初めは、1971年1月から放送されたテレビドラマ『2丁目3番地』での共演。
ドラマでは夫婦役を演じました。

同年3月には2人で人気トーク番組『スター千一夜』(フジテレビ)に出演し、同番組の歴代3位とは視聴率37.9%を記録。

同月に結婚を発表。
浅丘ルリ子さんは30歳、石坂浩二さんは29歳の時でした。

浅丘ルリ子と石坂浩二の離婚理由

浅丘ルリ子さんと石坂浩二さんが離婚したのは、結婚29年目の2000年12月。
浅丘さんが60歳、石坂さんが59歳の時でした。

離婚理由について石坂さんは「母親の介護問題」としていました。

石坂さんは離婚のわずか5日後に、22歳年下の女性と再婚を発表。

再婚は相手は石坂さんが主催していた劇団「急旋回」所属していた元女優で、その後、劇団の事務員として働いていた加藤真理さん。
結婚当時、37歳でした。

石坂さんと真理さんは十数年前から知り合いで、再婚の4年前からは石坂さんの両親のために、食事の世話などの介護をしてくれていたといいます。

浅丘さんは離婚の理由について2024年4月に『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演して際に、

『やっぱりごめんなさい、私まだ仕事続けたいし、このままだと悪いから』
『もし離れるなら、ちょうど60歳になるので、今そうしていただけますかって』

自分から離婚を切り出したことを明かしています。

離婚後、2004年に浅丘さんは20歳年下で大衆演劇の女形・松井誠さんと熱愛が報じられましたが、再婚はしていません。

浅丘ルリ子の子供

浅丘ルリ子さんに子供はいません。

子供は望んでいたようで、2021年8月に『ボクらの時代』(フジテレビ)に出演した際に、

『あたし、1人だけでもいいから子供がほしかった。それだけが悔やまれてならない』

と告白しています。

小林旭との関係

浅丘ルリ子さんと2歳年下の小林旭さんは、映画での共演がきっかけで交際に発展。
1960年頃には事実婚関係にありましたが、1961年8月に破局しています。

破局の理由は浅丘さんの父親の反対だったといいます。

小林さんが浅丘さんの家にあいさつに行くと、浅丘さんの父親は「まだ仕事をしたばっかりですから、これで辞めるということになるとこんなもったいないことないですし、やめさせるわけにはいかないのでご結婚はお断りします」と小林さんに告げたそうです。

結婚を反対された理由について浅丘さんは、

『父はもう仕事ができませんでしたし、私しか働く人がいなかったので』

と話し、当時は人気女優でも結婚したら家庭に入るのが普通で、浅丘さんも女優を続けたい思いもあり、悩んだ末に別離を決めたそうです。

浅丘ルリ子の生い立ち

1940年7月2日、旧満洲国新京市(現・長春)で4人姉妹の次女として誕生。
本名は浅井 信子(あさい のぶこ)。

父親は満洲国経済部大臣秘書官で、1943年、3歳の時に父親の転勤でタイのバンコクに転居。
1945年、終戦後はイのバンバートン(Bang Bua Thong)抑留所へ強制収容を経て、1946年8月、6歳の時にに日本に帰国。

茨城県の大洗、千葉県の館山で暮らした後、小学3年生の時に父親が代議士の秘書の仕事を得たことで、東京都千代田区神田に移りました。
自宅はガード下の借家で生活は貧しく、生活費を稼ぐためにに自宅で雀荘を営んでいといいます。

千代田区立今川中学校を卒業後、菊華高校(現・並学院高校)に入学。

中学時代に芸能活を始め、高校は多忙になったためい中退しています。

女優デビューのきっかけ

小学生の時には美空ひばりさんに憧れ、6年生の時にはレコード会社のオーディションを受けましたが不合格。

そこで歌手になることは諦め、中学2年生の時に読売新聞で連載されてた小説『緑はるかに』が映画化され、主人公が募集されていることを知り応募。
3000人の応募の中から6人に残り、最終オーディションでは、小説の挿絵担当だった中原淳一さんが「この子しかいない」と強い推薦で合格。

14歳の時に映画『緑はるかに』で女優デビューし、同映画での浅丘さんの髪型は「ルリコカット」と呼ばれ、女性の間で大流行し、一躍脚光を浴びました。

1961年には世界一周早回りと国際親善をかねた「美しい東洋親善使節団」日本代表を務め、、1964年には『夕陽の丘』で子供の頃の憧れだった歌手デビューを果たしました。

1973年の映画『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』でヒロイン・松岡リリーを演じて以降、50作中6回登場。

2回目に出演した1975年の『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』では、ブルーリボン賞・主演女優賞、キネマ旬報・主演女優賞を受賞。

1987年の主演映画『鹿鳴館』では日本アカデミー賞・優秀主演女優賞を受賞しました。

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