「日本人として初めて性別適合手術を受けた人」と称されるカルーセル麻紀さん。
戸籍上も女性になり結婚歴もあるようです。
生い立ちや芸能界デビューのきっかけは?
この記事ではカルーセル麻紀さんの生い立ち、経歴や結婚などについてリサーチしています。
カルーセル麻紀の生い立ち・学歴
1942年11月26日生まれ。北海道釧路市出身。
出生名は平原 徹男(ひらはら てつお)。現在の本名は平原 麻紀。
厳格な会社員の父親と家庭的な母親の4男5女の9人兄弟の二男として誕生。当時は戦時中だったことから敵国と「徹底的に戦う男」になるようにとの願いから「徹男(てつお)」と名付けられました。
しかし、幼少期から女性的な趣味嗜好を持っていて、当時の一人称は「アチシ」
周りからは「女になりかけ」といじめられていたといい、自宅では母親の化粧品をこっそり使い、お人形遊びばかりしていたといいます。
男性を恋しく思う自分に悩んでいた、釧路北中学校の2年生の時にに三島由紀夫さんの小説『禁色』を読んで初めて「同性愛」を知り、同時期に「麗しのゲイボーイ」と呼ばれていた丸山明宏さん(現・美輪明宏)の存在を知りました。
高校は北海道釧路北陽高校(偏差値51)に進学しましたが1年生の時に中退。
厳格な父親に反発し15歳で家を出ました
芸能界デビューのきっかけ
15歳の時に「18歳」と年齢をごまかして北海道札幌市のゲイバーで働いた後、北海道内を転々としながらホステスとして勤務。
17歳で上京。ゲイバーでの面接でとっさに「牧田徹」と名乗ったことから源氏名が「麻紀」に決定。
店では売れっ子になり、その後は札幌や名古屋、青森、愛媛、福岡、大阪など全国を転々しならゲイバー、ショーパブ、キャバレーなどで働きました。
19歳の時には大阪のゲイバー「カルーゼル」に勤務。
この頃に大阪OSミュージックホールでヌードダンサーとして初舞台を踏み、3代目市川猿之助さんの勧めで舞台にも出演。
この時に店の名前にちなんで芸名が「カルーセル麻紀」に決まりました。
「カルーゼル」に勤務しながら、1968年に歌手デビュー。
同時期に『11PM』(日本テレビ)のリポーターも務め、これがきっかけでレギュラー番組で多数のレギュラー番組を抱えるようになり、雑誌「平凡パンチ」などのグラビアでも活躍。
芸能界と平行してストリッパーとしても活動していました。
近年はテレビやラジオ以外にも、歌謡ショーなどの舞台に立っています。
日本で初めて性別適合手術
女性ストリッパーと共に、ストリッパーとしてステージに上がっていましたが、女性はステージで小さな下着をつけていましたが、カルーセルさんは男性器がついていたためセロハンテープを貼っていたそうです。
『激しい動きができないんです。もう、ハサミで切りたいくらい邪魔だった。別に女になりたかったわけじゃないの。ダンサーとして、ストリッパーとしてやりたかったんです。』
パリのクラブ歌手がモロッコで性転換手術を受けて男性から女性になったとのニュースを知ったことから、1972年4月、30歳の時にフランス・パリで働き始め、10月にモロッコに渡り性別適合手術を受けました。
2004年10月に性同一性障害者特例法が施行されたことから、性別の変更が認められて戸籍も女性になり、本名も平原麻紀」と改名しています。
フランス人と結婚
結婚といっても事実婚でしたが、フランスにいた30歳の時にプロポーズされたといいます。
相手はパリのバーであった男性で、熱烈にアプローチを受け、男性の一途な愛に心を動かされて、男性の両親にも会いにいくと男性は父親にありのままを話し「ぼくは麻紀と結婚したい。彼女は元は男だけど、今は手術して完全に女性なんだ」と伝えたといいます。
すると父親は「そうか、なるほど麻紀はステキな女性だ。オレが若かったら、息子より先にプロポーズしてるよ」とカルーセルさんを嫁として認めてくれたそうです。
カルーセルさんが帰国した時には男性も日本に来て一緒に暮らしていましたが、カルーセルさんはタレントとしての仕事や、地方のショーもこなしていたことから、男性の一緒にいられる時間はあまりありませんでした。
『疲れちゃった。だから彼のビザが切れるタイミングを幸いに、半ば強引に帰国させたの。わたしが飛行機のチケットも買ってあげて、羽田空港で抱き合って、手を振って涙を流しながら見送ったわよ。心の中では「二度と来るなよ」って笑顔でね。』
2人の時間が少なかったことから男性はことあるごとに焼き餅を焼くようになり、毎日のようにケンカをするようになり別れたそうです。
その後は結婚したくなったことは一切ないといいます。