芸術か、わいせつか」をめぐって裁判にまで発展した映画「愛のコリーダ」で主演を務めたことで知られる藤達也さん。
妻は元女優の芦川いづみさんですが、馴れ初めは?
子供はいる?
この記事では俳優の藤竜也さんの妻との馴れ初めなどについてリサーチしています。
妻の芦川いづみは元女優
芦川いづみさんは1935年10月6日生まれ。
藤竜也さんの6歳年上。
東京都北区出身で、1952年に法政大学潤光女子高校を中退し、竹音楽舞踊学校に入学。
翌年の1953年にファッション・ショー出演中、の川島雄三監督にスカウトされ『東京マダムと大阪夫人』で女優デビュー。
1955年に川島監督の推薦で、松竹歌劇団を退団して日活に入社。
浅丘ルリ子さん、吉永小百合さん、中原早苗さん、笹森礼子さんと並んで「パールライン」と呼ばれ人気女優として活躍しました。
可憐な美しさから和製ヘップバーンとも呼ばれました。
妻との馴れ初めは?
藤竜也さんと芦川いづみさんが結婚したのは1968年、藤さんが27歳、芦川さんが33歳の時でした。
神々し過ぎる。 pic.twitter.com/JF4M9ZgGav
— TnkAk (@tnkak1966) June 23, 2023
馴れ初めは1965年に公開された映画『四つの恋の物語』で共演したことでした。
藤さんは芦川さんとの出会いについて、「かつて松田聖子さんが「ビビビッときた」なんてうまいこと言っていましたけど(笑)、まさにそういう感じでして。」とコメントしています。
当時、俳優としては芦川さんの方が知名度が高く、美しかったことから周りからは嫉妬され、撮影所では「誰も口きいてくれなかったからね(笑)。」と話しています。
『僕から(女優を)やめろと言ったわけじゃないけれども、あのまま続けてたらどうなっていただろうな、と思うことはあります。』
引用 https://www.asagei.com/
芦川さんは結婚後、1968年9月に公開された『孤島の太陽』を最後に女優を引退。
以降は表舞台には一切登場していません。
藤竜也に子供はいる?
藤竜也さんと芦川いづみさんの子供は息子がいるようです。
インタビューなどで芦川さんについて話すことはありますが、子供について語ることはなく、どんな職業なのかなどは一切不明です。
藤竜也の経歴
1941年8月27日生まれ。神奈川県横浜市出身。
父親は横浜市のインク会社に勤務する会社員で、赴任先の中国北京市で同じ横浜出身の母親とお見合い結婚し、北京市で誕生。
3人兄弟の長男。
戦時中に帰国し、横浜市から小田原市に縁故疎開。
戦後に横浜市に戻り、小学6年生の時に父親が事故で他界。
関東学院中学校・関東学院高校を卒業。
大学は日本大学・芸術学部演劇学科に入学。
日本大学はいくつかの大学を受けてたまたま受かった大学で、俳優に興味があって演劇学科に入ったわけではなく、専攻する学科を書く時に、なんとなく映画学科を希望しましたが、成績が足りず演劇学科になったといいます。
大学は中退しています。
俳優になったきっかけ
大学1年生の時に有楽町マリオン前で、日活の社員にスカウトされ、「100万、200万なんて、金の単位じゃなくなりますよ」と聞き、「そんな世界があるなら見てみたい」と日活に入社し芸能界入りしました。
しかし、入社後は大部屋で、当初は通行人の役などが多く、「話が違う」と思ったそうです。
1962年10月に『望郷の海』で本格デビューしましたが注目されることはなく、大学も辞めてしまっていたため、この頃から俳優業について真面目に考え始めました。
主演映画「愛のリコーダ」で裁判
1966年の映画『嵐を呼ぶ男』で注目され、以降はアクション映画で活躍。
1970年からはドラマにも活躍の場を拡げ、1974年の『寺内貫太郎一家』のダンディな 上条裕也 役でブレイク。
1976年公開の大島渚監督の映画『愛のコリーダ』では主演を務め、第1回報知映画賞・主演男優賞を受賞。
しかし、性的シーンが「芸術か?、ワイセツか?」で物議を醸し、大島監督の「わいせつ、なぜ悪い」とのコメントはマスコミで大きく取り上げられました。
映画がボカシが入っての公開でしたが、脚本や宣伝用の公式本として発売した劇中写真を収めた書籍が「わいせつ物頒布罪」にあたるとして裁判に発展。
わいせつ物頒布罪で大島監督と出版社社長が起訴。
藤さんも参考人として警視庁で聴取を受けましたが、裁判は約5年間続き、無罪が確定しました。
コメント