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火野正平の妻と内縁の妻とは?離婚しなかった理由や子供は?

火野正平の妻と内縁の妻とは?離婚しなかった理由や子供は?

「昭和のモテ男」として知られる俳優の火野正平さん
2024年9月に腰椎を圧迫骨折して以降体調が悪化し治療を続けていましたが、仕事復帰が叶わぬまま同年11月14日に亡くなりました。
火野さんは妻と内縁の妻がいて、最初の妻とは生涯離婚をすることはありませんでした。
その理由は?
妻や内縁の妻とはどんな人?
子供はいる?
この記事では火野正平さん妻、内縁の妻や子供などについてリサーチしています。

火野正平の結婚歴は1度

火野正平さんは1970年、20歳の時に結婚。

『70年に、15 歳の時に出会った一般女性と結婚して子供をもうけた』

一般女性で、火野さんは妻について「(兵庫県)芦屋のお嬢様学校出身なんだけど、ちょっと怖いっていうか、肝がすわっている」とコメントしたことありました。

その後、多くの女性と浮名を流しましたが、結婚した女性とは離婚していなかったことが判明しました。

火野正平が離婚しなかった理由

最初の妻とは離婚ていたと思われていましたが、2016年のインタビューで妻と離婚していないことを明かしました。

『離婚がはっきりすりゃ、結婚しようと思ってますよ。ただし、それは女房が決めることでね。好き勝手に家を飛びだしたオレの決めることじゃないもの』

火野さんは自分から家を飛び出して、別居したことから、自分のは離婚の主導権はないと思っていたようです。

1974年には別居状態だった本妻は雑誌のインタビューに、

『あの人は可哀そうな人なんです。帰るところ行ったらここしかないんですから。もし、その人と別れて帰るところがなかったら可哀そうでしょう』

と思いを語っており、生涯、離婚をすることはありませんでした。

昭和のモテ男

火野正平は1970年に結婚後、多くの芸能人と浮名を流しました。

『女優さんと芝居する時はその女優がいい女に見えなきゃ嫌なのさ。男優も同じ。俺と一緒にやった人は、かっこよく見えてほしいなと思う。そのために、俺は崩したり持ち上げたりする。そうやっていくのが俺の仕事だと思っているから』

結婚した翌年の1971年には女優の新藤恵美と交際。

977年には女優の紀比呂子さん、アイドルのホーン・ユキさん、歌手で女優のりりィさんと交際。

1978年には女優の望月真理子さん、1981年には歌手で女優の仁支川峰子さんと恋人関係になりました。

平成に入ってからは女優の染谷まさ美さんとの交際が噂されました。

他にも多くの女性と交際し、最大11股と報じられたこともあり、インタビューで「何件もの”家”があり毎日帰る家に悩んでいた」と明かしていたといいます。

火野正平の内縁の妻

内縁の妻とされる女性との関係1980年頃からのようです。

相手は一般女性で、40年以上連れ添いましたが、本妻との離婚が成立しなかったため生涯、事実婚状態でした。

火野さんは2016年に内縁の妻について、「母ちゃんから『一緒に住んだのは今まで3年ぐらいだね』と言われる。でも、ごちゃごちゃ言わないのがいい」とコメントしました。

火野正平の子供

火野正平さんの子供は4人。

最初の妻との間に息子が2人、内縁の妻との間に娘が2人いるようです。

内縁の妻との娘は、長女が喜生(よい)さん、 野生(のい)さんと2人ともジュエリーデザイナー。

ジュエリーブランド「Yoi Iniki」を設立し、世田谷に店舗もあるようです。

火野正平の経歴・学歴

火野正平のプロフィール

名前    火野正平
生年月日  1949年5月30日
没年月日  2024年11月14日(75歳没)
出身    東京都目黒区
身長    168cm
血液型   A型
所属   シーズ・マネージメント

本名は二瓶 康一(にへい こういち)。

3歳の時に父親が他界し、母親は再婚。

継父の仕事は工場に技術を教えるよく業で、転勤が多く、中学、高校時代は大阪で暮らしました。

継父とは確執があったと自身の著書で明かしています。

高校は大阪府豊中市の大阪府立桜塚高校(偏差値62)に進学。

高校は中退しています。

子役デビュー

12歳の時に『劇団こまどり』に入団。

1962年、13歳の時にテレビドラマ『少年探偵団』(フジテレビ)でデビュー。

中学時代も子役としてドラマを中心に活動。

1966年、高校2年生の時に時代劇ドラマ『わんぱく砦』(TBS)に出演するとブレイク。

ファンレターは段ボールに一杯に届き。自宅の周りには女の子がウロウロするようになったといいます。

しかし、番組が終わって半年後にはそれがピタッとなくなり「この世界はそういうもんなんだ」と気が付いたそうです。

『俺は麻雀が本職だったからね。麻雀でご飯を食べていけたんだ。』

麻雀で稼ぎながら、ドラマを中心に出演。

1973年に作家・池波正太郎が名付親となり「火野正平」に改名。

同年に出演した大河ドラマ『国盗り物語』では羽柴秀吉を演じ、当たり役となりました。

1974年には『俺の血は他人の血』で映画初主演。

ドラマ、映画、Vシネマと幅広く活躍しながら、2011年からは旅番組『にっぽん縦断 こころ旅』(NHK BS)に出演しました。

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