吉永小百合さん、松原千恵子さんと共に「日活三人娘」と言われた和泉雅子さん。
若い頃は清純派女優として活躍しましたが、これまで結婚歴はなく独身です。
独身の理由は冒険家だから?
現在は僧侶?
この記事では女優の和泉雅子さんの独身の理由になどについて紹介しています。
和泉雅子は結婚願望はあった
和泉雅子さんは一度も結婚はぜず独身。 人気女優でした交際や熱愛の噂など情報はありません。
これは母親の影響もあるようです。
20代の頃は結婚願望があり雑誌の取材の時に「30歳までには結婚したい」と話していたといいます。
13歳の時に日活に入ったため、悪い虫がつかないようにと母親が付き人になり、26歳まで母親が付き人だったため、男性と交際するきっかけがなかったようです。
独身なのは冒険家だから?
和泉雅子さんは30代で北極点を目指すようになり、極地で耐えられる体力をつけるために脂肪をつけ、極地の強い紫外線の影響で顔にしみが多くできたため、美人女優時代の容姿との落差が一時期、バラエティ番組などで話題になりました。
1983年12月から1983年1月にかけてテレビ東京のドキュメンタリー番組のレポーターとして南極に行き、壮大な自然に感激。
同1984年、38歳の時に「地球の“てっぺん”に立ちたい」と北極点に立つことを目指し始めました。
女優をしながら北極点挑戦の資金集めなどの準備をし、北極圏に25回行った北極のスペシャリストの五月女次男さん紹介されました。
五月女さんサポートで、テントで生活する訓練をし、1985年1月28日、北極点を目指して日本を出発。
隊員5人の「マコ隊」でスノーモービルでソリを引いて北極点を目指しましたが、出発から62日目の同年5月23日、北極点まで148kmというところで、気温の上昇によって大きな氷の割れ目ができ、その割れ目拡大のため進むことが出来なくなり断念。
この費用は1億円を超え、和泉さんは多額の借金を抱えましたが、女優業からも離れましたが、日本全国から講演依頼を受け全額完済。
1989年2月1日、再度、北極点到達に挑戦すると、4年前に断念した62日目に海氷上からでは日本人女性として初めて北極点到達に成功。
これ以降もグリーンランドなどの北極地方に約50回以上行っているといいます。
和泉雅子の生い立ち・経歴
東京都中央区銀座の三原橋の近くの寿司割烹店「和泉屋」の娘として誕生。
戦国武将の竹中半兵衛の末裔に当たり、4代続く江戸っ子で、江戸時代には和泉家は代々幕府御用達の家具商を務めていました。
明治維新後は魚介類の卸売り業に転業し、戦後に銀座に土地を購入し寿司割烹店を開業したといいます。
小学生の時は勉強は苦手で学校をサボりたいと思いましたが休ませて貰えなかったといいます。
そんな時、児童劇団の子役募集の広告を見つけ、テレビ、映画などに出れば学校を休めると思い応募すると合格。
10歳の時に「劇団若草」に入団しました。
子役として活動した後、テレビドラマで見た喜劇役者の柳家金語楼に憧れ、喜劇役者を目指しつてを使って柳家金語楼さんに弟子入り。
柳家金語楼さんがテレビ番組に出演する時にカバン持ちとして同行した際に、番組の共演者で日活の女優でプロデューサーだった水の江滝子にスカウトされ、1961年、13歳の時に女優として日活に入社しました。
高校は精華学園女子高校(現・東海大学付属市原望洋高校)を卒業しています。
女優、冒険家
日活に入社後は吉永小百合さんと松原智恵子さんと合わせて「日活三人娘」と呼ばれ青春映画を中心に活躍。
絶大な人気を誇り、雑誌「近代映画」の女優の人気投票では1996年、1997年には吉永小百合さんの次ぐ2位に2年連続でランクイン。
1963年に主演を務めた映画『非行少女』では、エランドール新人賞、モスクワ映画祭金賞を受賞しました。
1970年代からはテレビドラマでも活躍。
1989年には冒険家として日本人女性として初めて北極点到達に成功しました。
1998年以降はテレビ、映画での活動は見られず、1998年に北海道士別市に別荘を建て、東京と北海道を行き来し、講演活動などをしているようです。